羊たちの沈黙(THE SILENCE OF THE LAMBS;1991)

久しぶりの更新ー。レビューやけど。

学校の犯罪学の授業で2週にわたって鑑賞しました。
前半記憶があいまいなところもありますが、記憶が鮮明なうちに。

まず引っかかったのは題名について。いつも映画を見るときは題名と相関があるのかどうかについて考えるんですけど、この映画もタイトルが重要な意味を表していることに気づきました。「沈黙」とはつまり、死のこと。クラリスは幼いころに警察署長だった父を強盗に殺害され、また孤児となって引き取られた先で悲鳴を上げる子羊を救い出したものの、結局殺されてしまう、という二つのつらい経験をしています。沈黙と悲鳴はつまり、このことを想起させながら、クラリスが追っていく事件の中で暗喩としてたびたび使われるキーポイントになります。映画を見ながら「伏線と情景描写の複雑な映画だな」と思っていたので常にそのことが気になってて事件の詳細まであんまり覚えてないんですがw

ちなみに、さっき調べたところ羊はいけにえの象徴だとか、クラリスの追う犯人が女性の皮膚を剥ぐ、ということも羊を示唆しているというコメントを見てなるほどと思いました。

情景描写は静と動が巧みに使い分けられているイメージを受けました。そのおかげか、終始緊迫したムードでストーリーが展開していくので、はらはらして退屈しませんでした。一番その印象が強かったのはレクターが警察官を殺害するシーンで、犯行時の「悲鳴」と犯行前後の「沈黙」が鮮明に表現されていますw最後、クラリスが真犯人を追い詰めるシーンはちょっと物足りないかなという感じを受けましたがそれでもほかの場面が補って余りあるほどの示唆に富んでいて解釈の多様性・自由度が高く何度も見る価値がありそうです。かくいう自分も謎解きのヒントと心理描写がうまく読み込めない部分がかなりあったので、またDVD借りに行こうかなーと思います。続編の「ハンニバル」も観なきゃだなー。

なんとなく更新(半年ぶり)(あけましておめでとうございます)

病は気から、浪人は気から。留年も気から。どうも、23歳、大学生活ロスタイム突入です。

ここ数カ月でいろんなことがあったのでまとめてみる。

  • 卒論

終わらせました。箸にも棒にもかからないような駄文ですがなんとか2万字まで膨らませ恩赦(6単位)をげっとしました。テーマは地域商店街がどうのこうのです。卒論を書いて留年なのでいちいち説明するのがめんどくさい。

  • 引っ越した

都から都に引っ越しました。分かる人だけ分かればいいと思います。旧居より学校から40キロほど遠ざかりましたがいろいろ鑑みて今の情況に至りました。大変快適な新居生活が始まって1カ月が経っています(報告が遅すぎる)

  • 4年間にわたるバイトを退職

引っ越しに伴って先週日曜日を持って4年間勤めたバイト先から離れることに。辞めたいと思ったこと数えきれないほどあったけど、4年間続けた自分を褒めてあげたいです()いろんな面でタフになった気もするししないかも。さすがに4年間も続けただけあって、最終日はちょっと感慨深かった。いろいろプレゼントもらった。多謝。

  • 新しいバイト

上記のバイトラスト1カ月は新しいバイトと掛け持ちしてました。今度はスーツを着ての仕事です。いろいろ思うようにいかないことが多くて早くも心折れそうです。

2012年度の目標はもっと自信を持つこと。高3の時もうだめかもって思ったら浪人したし、大学3回の履修ミスで大量に単位落とした時も留年するかもって思って結果、留年した*1。結局、前途多難な人生は自分で作り上げてきた駄作の小説みたいで、なんか笑ってしまうほど能天気な俺ですが、もっと自信を持って物事を少しでもプラスな方向に転換させたいです。目的意識を持って自己管理、最低限のことにちゃんとけじめをつけてちゃんと卒業できるようにします。願望から意志へ。いつになくやる気。寝る。

*1:いろいろ事情はあるけどまぁそれも大きな要因の一つ

うれしい

・はっと思い立ってぱっと誘ってさっくり飲める友達が素敵すぎる。そういう人が多いのは本当に幸せだ。

・しかもなぜかめちゃくちゃ会ってるのに、話が尽きない。なんでだろう。話してることはそんな繰り返しじゃないはずなのに、取るに足らないことでも、共通の話題でも、悩みでも、なんでも延々と話していられる。

・アルバイトの時給が700円でも800円でも、俺はその1時間に1万円以上払う価値があると思ってる。

・こういう瞬間は時間が経つほど熟成されて思い返すほど愛おしい時間なんだから。

なんとなく、辛いことも、かなしいことも、悩んでることも、口に出すだけみじめで、意味が無いことだと思いこんでる節がある。まあ頻繁に口に出してしまう自分は自ら幸運を遠ざけてる感じがしてるわけなんだが。「悩みがあったら聞くよ」とか安請け合いして訊くだけ聞いて、あとは知らん、結局自分にはなにもできん、っていうのが嫌いだからあんまり聞こうとも思わない。でもなんとなく相手の境遇を感じ取って大変じゃないかなーと心配することはある。上に書いた人たちは一緒にいると安心できるんだけど、やっぱりそういう面で何も言わなくとも理解してもらえてると言う自分の傲慢さ・甘えなのかもしれない。なんとなく、気兼ねなく飲める人と、気を使ってしまう人といるけど、気を使ってる相手と言うのは結局のところ自分が相手を信頼してないんだろうな。人脈を広げるというのはそういうとこから改善しなきゃならんというのは辛いところだ。

この大学に来てよかったこと。はっきり言っておくけどこの学校自体は嫌いだ。
無責任な言葉を投げてくる友達と出会わなかった。なんだろう、高校時代よりもずっと希薄なはずなのに、けれど信頼して言葉を投げ合える人と友達になれたこと。安心して頼れる。無責任な頑張れって言葉もない。そこによりかかりすぎな気もするけど、give and take な関係、嫌いじゃない。むしろ理想。類は友を呼ぶってこういうことなのかな。

人が発するオーラって結構大きい。それだけで自分と他の差異とか境界を感じる。けど、やっぱりうちとけ合わないと見えない部分も多い。弱さを見せる時、その人の本質が分かる。その時に助けたい、支えたい、応援したいと思えるかどうか。それは結構な確率で波長が合う合わないの判断基準な気がする。

嫌いなもの

中途半端が嫌い
なよなよするのが嫌い
優柔不断なのが嫌い
綺麗ゴトが嫌い
被害者面するのが嫌い
不作法が嫌い
緻密なことが嫌い
学校が嫌い
誰かが嫌い
しいたけが嫌い
カリフラワーが嫌い
パクチーが嫌い

何かに対する拒否反応。

Sol

今日もまた、自分という人間を商品に営業しなければならない。等身大の自分、ちょっと背伸びした自分、卑屈な自分。あの会社にはどの「自分」を描いて、送ったっけな。

学生という身分をスーツで隠した社会人もどきが、「立派な」ビルに駆け込んで、赤の他人に自分がいかに素晴らしいか話し、いかに相手を好きかを告白する。話し相手は赤の他人なのに、そこには自分がいる。話をどこに向けても自分が。話してるのは自分、聞いてるのも自分。自分のこと、自分でよくわかってるはずなのに、一番わからない。答えを探るように、おそるおそる述べると、向こうの自分が笑う。ひとつの真実も捉え方によって嘘になる。

何がしたくて、面接を受けているかなんて、わからない。どんな仕事がしたいなんてない。どんな経験も、どんな生き様も5文字程度の簡便な言葉で短縮されてどんな人間なのか評価される。手をくわえたままそれを否定することもできず、結局今日も自分の不甲斐無さにがっかりする。今日もダメだったな、なんて。嫌な部分しか見えてこない。

「今まで何かをやり遂げたことはなんですか?」

という簡単な質問に全く答えられなかった。20数年の人生に思いを巡らしても堂々と誇れる経歴がなくて、哀しかった。と同時に、情けなかった。やり遂げたことなんてない。誇れることなんてやってない。いつも結末はハッピーエンドじゃなかった。助け船を出されても、頭が真っ白になった自分には言葉で飾ることもできなかった。

終わってから、雑踏の中、歩き回った。気を紛らわすために遊んだり、行ったことのないところへ足を延ばしてみようと思って、ただ歩いた。そこはいつもと違う風景、自分で選択して違うものを見ようと歩いてきた。どんなに足が痛くても目に映る真新しい光景が楽しくて、わくわくしてた。

今までやってきたこと、これからしたいこと。結びつける必要はない。自分はここにいたい。もっと知らない世界を見たい。将来なんて、千変万化、降りかかってくることはいつも違う。固定された仕事はない。なのに何がしたいなんて、世間もろくに知らないのに、なんで言える?俺はここにいたい。自分の居場所を見つけるんだ。それはきっと、いつも新しい刺激を与えてくれる。いつも、異なる感動を、感じていたいんだ。そんな場所が見つかればいいな。どこまでも甘いや。

目的が外にあるか内にあるか

三年後期がもう終わり、四年に差し掛かろうとしています。実は前期不慮で単位を虐殺してしまい留年リーチではないけど割と危ない状況です(;^ω^)でもまあ何とかなると思って就活してます。

報道にもある通りうちの学校含めた大学入試が書きこまれるといった事件で議論が飛び交ってますけど、それはさておき、カンニングで逮捕された青年に同情*1というか、憶測ではあるけど、愚直だなという感想を持ちました。

浪人の一年というのはもちろん大学に受かるっていうのが第一の目標で、それだけをモチベーションとして勉強し続けるわけですけど、これって結構、大変な精神力が必要なんです。僕も*2浪人してなんとか入れる大学があってこうしてますけど、そりゃ勉強しましたし、精神的にきつかった時期でした。で、浪人の戦う相手というのがピチピチの高校3年生(他浪人生)ですからもちろん知識の面では相対的に勝るので油断してしまうわけです。

それに予備校に行くとすれば、たいていの予備校は都心駅近くに立地しているので通いやすいけど、それだけに誘惑があるんです。逆にもし田舎にあって缶詰で勉強できる空間があっても今度はそこへ通う気力をそがれるわけです。かくいう自分は駅までがまず遠く、そして隣町まで通ってましたから自転車40分→電車30分→徒歩15分と、これが毎日2回繰り返されるので時間的、体力的損失も大きくモチベーションを下げる要因の一つでした。件の子は寮に入ってたみたいなのでその面については大丈夫そうですね。

最大の問題点は目的の所在が自己にあるのか他にあるかだと思います。幼いころから賢いといわれて育てられてきた子というのはそれがモチベーションとなって勉強し、やがてそれが目的になるんじゃないかな。だとすれば大学(京大)合格という目的が手段になって他に喜ばれるために頑張る、つまり過程云々より入ってしまえばこっちのもんさへへっという*3心理だったんじゃないかと推察します。まぁ、不本意な大学に入ったら入ったで後々苦労しますけどね。(証人が語る)

なにはともあれ、やったことは悪いことなので肯定することはしませんけど、最近の報道の仕方とか、ネットにおける事実の追い方がエスカレートしている気もします。就職活動をしていて、「就職氷河期」「就活早期化」「内定取り消し」など、あたかも企業が悪のようにまくしたてるような報道*4に比して、説明会で話をされる人事の方や社員の方はわざわざ時間を割いて場を提供してくれて、熱心に説明しているところを見ると報道ってなんだろなぁ、と疑問に思います。悪を探し出してきてそれを叩く、2ちゃんねるの祭のような報道が多い気がしてなりません。

*1:もちろん試験の公平性を著しく乱す行為ではあるけども

*2:結果は成功とはいえんけど

*3:実際はもっと追いつめられてたろうけど

*4:実のところ選考が一番早いのはマスコミですけどね