テリトリー

大学入って2年目の年が終わろうとしている。学年暦は3月までだけど、ここはひとつの区切りということで、振り返ってみたりなど。バイトや学校とかでの出会いの時期が1年次なら2年次はそれを成熟させる時期かもしれない。いろんなことを考えて、揉まれて、葛藤しながらよい関係を築きたい。時には重要な人の順番をつけてそれに応じた対応をしなければならない。まだ社会人として働いていない自分のような人間は責任から開放されている代わり、信用もない。だから社会から軽んじられている。学歴は関係なく、学生は学生であって、未熟な身分と思われている。もちろんそんな人間が横柄な態度で人と接したところで誰一人としてその人には近づかないだろう。ところが自分より年上の、社会に出て働いている人は相手が下手に出ることでその上に立って相手を見下し、失礼だと思われるような言動をとることもあるかもしれない。いや、ある。それに対してつらい思いをするのは仕方のないことだけど、そこで、じゃあ、自分に何ができるんだろう。と考える。すると結局は他人の機嫌を損ねない、当たり障りのない言動を心がけるというものだ。

碁盤の目は整然と升目が区切られて、王将と桂馬も、キングとビショップも同じ大きさの升目だ。現実の人間社会ではそういったことはまぁ少ない。そして、社会に出れば非常に狭い領地で戦わなければならない。それは状況に応じて変化するし、それに見合った行動をとらなければならない。自主性の尊重や、自由闊達というのはせいぜいその領域内でのことで、不用意に他の領域に入り込んだところでそれは「迷惑」をかけていることになる。あるいは、他人を不快にさせるかもしれない。自主性を育てるという言葉の裏には、他人との協調ということが含まれていることを忘れてはいけないんだ。もちろん、自分だけでは不可能なことが多い。2人ならできること、3人ならできることがある。人に迷惑をかけなければ他人に関して無関心でいいということではないだろう。それなら会社はいらない。朝起きてから夜寝るまで、、人間の生活のあらゆるところで誰かの所作が利便性を作り出しているのだから。だから、つまり、自分にできることは他人との垣根をその場その場に応じて変化させるというのは当たり前だけど、テリトリーを分かちあう必要も出てくるなぁと。もちろん、そんな境界自体存在するのが馬鹿らしいと考えるかもしれないけれど、人それぞれ違った境遇、生い立ちがあるのだから価値観が違うのは当然だし、性格も違う。それらを理解することが第一歩なんだと思えるようになった。道行く人に不躾にあしらわれても、他のどこかでは親切にしてくれる人がいる。そういった意味でもマイナスがマイナスを呼ぶよりも、プラスがプラスを生んで心地よく生活できるんじゃないかなぁといろんな経験を経て思った。つかまぁちょっと考えれば当たり前なんだけどね。「そんなこと、みんな考えてたら戦争なんてない」みたいに、諍いがあることを前提に考えないで胸糞が悪くても、時には我慢することが必要なんだ。誰もしないから、しないとか、誰かがしてるからいいじゃん、みたいな思想はもうやめようって考えに到った。そんな一年。なんじゃそりゃ。

よいお年を。